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恋骨(こいぼね)――あわいの刻、愛を彫る
恋骨(こいぼね)――あわいの刻、愛を彫る
ผู้แต่ง: 佐薙真琴

第一章 漆の匂いと鉄の味

ผู้เขียน: 佐薙真琴
last update ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-14 10:38:20

 江戸の空が、重たい鉛色に沈んでいる。根津の裏路地、湿った風が吹き抜ける長屋の一角に、「あわい屋」という小さな看板が揺れていた。

 六畳一間の工房には、鼻孔を刺すような甘酸っぱい匂いが充満している。漆の匂いだ。それは森の精気が腐敗する寸前で放つような、濃密で、どこか淫靡な香りを孕んでいる。

 お龍(おりゅう)は、薄暗い行灯(あんどん)の光の下で、一本の木塊(きくれ)と対峙していた。

 素材は、樹齢五十年の柘植(つげ)。硬く、緻密で、人間の肌にもっとも近い弾力を持つと言われる木だ。お龍の細い指が、鑿(のみ)の柄を強く握りしめる。指の関節は白く浮き上がり、そこには無数の細かい切り傷と、漆による気触(かぶ)れの跡が刻まれていた。職人の手だ。けれど、その手つきは慈母が赤子を撫でるように繊細でもあった。

 シュッ、シュッ。

 鋭利な刃先が木肌を削る音が、静寂の中に吸い込まれていく。

 彼女が彫っているのは、仏像ではない。簪(かんざし)でもない。男根を模した性具――張形(はりがた)である。

 しかし、お龍の張形は、巷に溢れる春画のような誇張された代物とは一線を画していた。血管の一筋、亀頭の微かな歪み、睾丸の皺の寄り具合に至るまで、徹底的な写実主義(リアリズム)に基づいている。それは単なる快楽の道具というよりも、失われた肉体の一部を補完する「義肢」に近い厳粛さを纏っていた。

「……ふぅ」

 お龍は鑿を置き、小さく息を吐いた。

 途端に、喉の奥から込み上げてくるものがあった。

 ごほっ、ごほっ、ごほっ。

 乾いた咳が止まらない。背中を丸め、畳に手をついて激しく咳き込む。肺の奥で、錆びたふいごが軋むような音がする。胸郭が痛み、視界が白く明滅する。

 ようやく発作が収まり、お龍は口元を懐紙でぬぐった。

 白い紙の上に、鮮やかな紅が散っている。

 それは、彼女が仕上げに使う最高級の辰砂(しんしゃ)の赤よりも、ずっと生々しく、不吉な輝きを放っていた。

 鉄の味。

 口の中に広がる血の味は、奇妙なほど冷たく、そして甘かった。

「……また、少し減ったね」

 お龍は誰に聞かせるでもなく呟いた。減ったのは、自分の命の時間だ。

 彼女は労咳(ろうがい)を病んでいた。

 江戸の町医者は「精のつけすぎだ」などと適当なことを言ったが、お龍は自分の体が内側からゆっくりと溶けていく感覚を、確かな解像度で把握していた。

 微熱が常にある。その熱は、お龍の感覚を研ぎ澄ませていた。

 医学的に言えば、結核菌がもたらす慢性的な低酸素状態と微熱は、患者に一種の多幸感と、異常なほどの知覚過敏をもたらすことがあるという。お龍にとって、世界は常に過剰なほど鮮やかだった。

 行灯の炎の揺らぎが、網膜に焼きつくような軌跡を描く。

 隣の部屋から聞こえる衣擦れの音が、雷鳴のように鼓膜を震わせる。

 そして何より、触覚だ。

 お龍は作りかけの張形を手に取った。まだ荒削りの柘植の木肌。その微細な凹凸が、指先の指紋を通して脳髄に直接流れ込んでくる。

「ここが、違う」

 彼女は再び鑿を握った。

 依頼主は、日本橋の呉服屋の後家だった。亡き夫を忘れられず、夜ごとその面影を求めて泣いているという。お龍は先日、その後家と寝た。彼女の体を知り、その膣内の収縮と温度、そして彼女の記憶の中にある夫の「形」を聞き出すためだ。

 後家は泣きながら言った。『あの人のあれは、少し左に曲がっていたの。根元に小さな火傷の跡があって……』

 お龍は、その記憶を木に翻訳する。

 言葉を形に。情念を物質に。

 刃先をミリ単位で動かす。左への湾曲を作るために、木目の流れを計算する。逆目に刃を入れれば木が毛羽立つ。順目に、しかし大胆に削り込む。

 削り出された木屑が、金色の粉のように舞い散る。

 その時、ふいに背後で気配がした。

「また、そんなものを彫っているのか」

 低い、男の声だった。

 お龍は振り返らなかった。その声の主が誰であるか、匂いで分かっていたからだ。雨の匂いと、古びた紙の匂い。そして、どこか寂しい白檀の香り。

 清次(せいじ)だった。

「あら、清次さん。いつからそこに?」

 お龍は鑿を置かずに答えた。

「今しがただ。戸が開いていたぞ」

 清次が土間に上がり込み、濡れた傘を立てかける音がした。彼は浪人である。仕官の口もなく、長屋で寺子屋の真似事をして糊口を凌いでいる。

 お龍にとって、清次は特別な「恋人」の一人だった。

 彼は、あがり框(かまち)に腰を下ろし、お龍の背中をじっと見つめた。

「咳が酷いようだな」

「季節の変わり目ですから」

「嘘をつけ。痩せたじゃないか」

「余計な肉が落ちて、手元が狂わなくていいんですよ」

 お龍は軽口を叩きながら、ようやく彼の方を向いた。

 清次は整った顔立ちをしているが、その瞳には深い諦念の影が差している。彼は、刀を抜けない侍だった。そして、女を抱けない男だった。

 心因性の不能。

 ある事件を境に、彼の男根は二度と硬くならなくなったという。

 それでも、お龍は彼を愛していた。

 性交を伴わない愛。

 それは、お龍の奔放な性生活の中で、唯一の静寂(サンクチュアリ)だった。

「それで? 今日は何の用です?」

「……別になんでもない。ただ、お前の顔が見たかっただけだ」

 清次は不器用に視線を逸らした。その視線の先には、お龍が彫り進めている張形がある。彼はそれを嫌悪しているわけではないが、直視することを避けているようだった。それは彼自身の欠落を突きつける鏡だからだ。

「これ、もうすぐ仕上がりますよ」

 お龍はあえて張形を持ち上げて見せた。

「呉服屋の奥様の、亡くなった旦那様の身代わりです」

「身代わり、か」

 清次が自嘲気味に笑った。

「木っ端に魂など宿るものか」

「宿りますよ」

 お龍の声は真剣だった。熱を帯びた瞳が、暗がりの中で怪しく光る。

「魂というのはね、清次さん。雲のような形のないものじゃありません。もっと物理的な、重さと手触りのあるものです。汗の匂い、筋肉の張り、血管の脈動……そういう『情報』の集積こそが、人が人である証拠なんです」

 彼女は張形の表面を、愛おしげに撫でた。

「肉体は滅びます。旦那様の体はもう灰になってしまった。でも、奥様の記憶の中には、その形が残っている。私がそれを木に彫り出し、漆で皮膚を作り、奥様がそれを体内で温めれば……そこには確かに、旦那様が『在る』ことになるんです」

 お龍の職人としての哲学――いや、信仰に近い狂気だった。

 彼女は知っていた。漆(うるし)という樹液の特異性を。

 漆は、酸素を取り込んで硬化する。乾くのではなく、呼吸して固まるのだ。それは生きている塗料である。人間の肌と同じ有機物であり、数百年経っても腐らない強靭な被膜を作る。

 だからこそ、張形には漆が必要なのだ。

 永遠に腐らない肌を作るために。

「お前の言っていることは、俺には難しすぎる」

 清次はため息をつきながらも、懐から小さな包みを取り出した。

「これ。南天の実だ。咳止めにいいと聞いた」

 お龍は目を見開いた。

「あら……嬉しい」

 彼女は小走りに近寄り、その包みを受け取った。二人の指先が触れ合う。清次の指は冷たく、乾燥していた。お龍の指は熱く、湿っていた。

 そのコントラストが、二人の関係性を物語っていた。

「ありがとう、清次さん」

 お龍は彼の手に自分の手を重ねた。

「……泊まっていく?」

 その問いかけに、清次の体に緊張が走ったのが分かった。彼は一瞬、迷うような素振りを見せたが、やがて首を横に振った。

「いや、やめておく。俺がいても、邪魔なだけだろう」

 彼は視線を、お龍の背後にある作業台――そこには数々の張形が並んでいる――に向けた。

「お前には、木屑の恋人がたくさんいるからな」

 それは皮肉ではなく、悲しい事実の確認だった。

 清次は立ち上がり、逃げるように背を向けた。

「薬、ちゃんと煎じて飲めよ」

「ええ。気をつけて」

 清次が去った後、再び工房に静寂が戻った。

 お龍は南天の実の包みを、神棚のように設えられた棚に置いた。そこには、他の愛人たちから貰ったかんざしや、手紙も並んでいる。

 彼女はポリアモリー……つまり複数愛者だった。清次だけではない。吉原の遊女、若い歌舞伎役者、近所の八百屋の娘……彼女は多くの人間と関係を持ち、そのすべてを等しく愛していた。

 だが、その愛し方は歪だった。

 お龍は、愛する人たちを「観察」していたのだ。彼らの体の形、快感のツボ、匂い、声のトーン。それらを収集し、自分の脳内の引き出しに分類して保存する。

 なぜなら、自分が先に死ぬからだ。

(私は、何も残せない)

 子供を産むこともできない体だ。

 この労咳の体では、誰かの人生を背負うこともできない。

 だから、せめて「快楽」だけを残そうとした。

 悲しみを忘れさせ、死の恐怖を中和する、純粋な快楽の装置。それを完璧な工芸品として残すことだけが、お龍にとっての「愛の証明」だった。

 再び咳が出た。今度はもっと深いところから。

 お龍は作業台に戻った。

 熱に浮かされた頭で、柘植の木を見つめる。

 幻覚だろうか。木目が、人の血管のように脈打って見えた。

「待っててね。今、命を吹き込んであげるから」

 彼女は鑿を振るった。

 その夜、お龍は夢を見た。

 自分が一本の大木になり、その内部を無数のシロアリに食い荒らされる夢だった。シロアリたちは清次の顔をしており、またある時は遊女の夕霧(ゆうぎり)の顔をしていた。彼らは泣きながらお龍を齧(かじ)り、その体内に巣を作っていく。

 痛みはなかった。

 あるのは、自分が彼らの一部になっていくという、おぞましくも甘美な充足感だけだった。

 目が覚めたとき、枕元には愛猫の「文(ふみ)」が座っていた。

 文は生まれつき目が盲(つぶ)れている。白い毛並みの三毛猫だ。

 文は音もなくお龍の胸の上に乗ると、その温かい舌で、お龍の頬についた涙の跡を舐め取った。

 ザリ、ザリ。

 猫の舌の感触が、鑿の跡のようだった。

「お前だけだね、私の本当の姿が見えているのは」

 お龍は文を抱きしめた。猫の体温と、自分の高熱が混ざり合う。

 窓の外では、夜明け前のカラスが鳴いていた。

 今日もお龍は彫るだろう。命を削り、愛を彫る。それが、死へ向かう行進曲であることを知りながら。

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